昔から「あー1年前はこんなことしてたな」「もうあれから10年か」と思ってしまう癖がある。
ちなみにこれを書いてる1年前の今日は、四国旅行をしてた。
これを懐古癖と呼ぶことにすると、この癖はなんで起きるんだろうか?ぱっと思い浮かぶのは、かつての自分と今の自分の状況の対比だ。かつての自分の状況(旅行中で楽しい)>今の自分の状況(ブログ書いてて寂しい)ということ。言い換えると、現状に満足していないから。
でも、思えば、小学生の頃は早く中学生になりたいと思っていたが、中学生になってみると小学生に戻りたいと思っていた。
高校生や大学生の時も同じだし、大学院生の今も同じ。
小学生の頃は中学生になりたいと思っていたなら、小学生の頃に満足していないことになる。言い過ぎた。小学生の今よりも、中学生の未来の方がたくさん満足できると思っていることになる。
でも、いざ中学生になると、中学生の今より小学生の過去の方が満足できていたことになる。
これと同じで、なんでか分からないけど、こんな場所に行きたいなーと期待していて、いざその場所に行ったら期待通りじゃなくて失望することや、逆にどうでも良いと思っていたけど、時間が経つと良かったと振り返ることもある。
こんな感じで、今の大切さとか今に満足を感じることってめっちゃむずい。少なくとも僕にとっては。
何かの価値を感じる、誰でも出来て一番手っ取り早い方法は、その「何か」から離れること。
日本の良さや価値を感じたいなら外国に行くのが最適だというのを最近学んだ。家族の大切さを感じたいなら、独り暮らしするのが最適で、健康の価値を感じたいなら病気にかかるのが最適だ。自分の価値を感じたいなら、人からの評価を聞くのが最適だ。
でも、時間はそうはいかない
「今」っていう時間は文字通り「今」しかなくて、もうどんなに頑張っても戻ってこない(ここでは「今」は「一瞬」の意味じゃなくて、ある程度の時間幅をもった「今」を想定してます)。だからさっきの経験則に当てはめると、「今」に価値を感じるには「今」からはなれなきゃいけないわけだけど、「今」から離れたらもう「今」に戻ってこれない。
ということはつまり、「今」に本当の意味で満足することはできないんだろうか?
そんなわけはなく、もし経験則にのっとるのであれば、時間的に離れるためには自分の視点を変えるしかない。
つまり、自分の視点を過去や未来に向けること。こうすれば、一応「今」から離れているわけだ。
こう考えると、懐古癖は意外と「今に満足していないから起こる」のではなく、むしろ「今に満足したいから起きている」のではないか?もちろん両者の立場も満足はしていないのは一緒。後者の方はより積極的ってだけ。
いや、でも違う。視点を変えて価値を知るっていうのは、あくまで「今」を焦点にした場合に有効だ。
何か二つの物事がある場合、私たちは比較をするわけであって、比較するにはどっちかに焦点を置くはず。例えば、発表会で最後の人の発表が一番良く感じるのは、最後の発表者を焦点に置いているからではないか?
そう考えると、良い懐古癖と悪い懐古癖があることが分かる
懐古癖は「過去」と「今」の比較だが、良い懐古癖は「今」に焦点が当たっていて、悪い懐古癖は「過去」に焦点が当たっていることだ。
良い懐古癖は、言い換えると反省だ。過去の経験(成功も失敗も)を振り返って「今」に活かす。
悪い懐古癖は、「過去」の時点で気づけなかった価値を、「今」と比較することで気づく作業だ。
基本的に、悪いものは良くしたいわけだから、悪い懐古癖を良い懐古癖にすれば嬉しいわけだ。
でもこれはめっちゃ簡単で、視点に気付いて修正してあげればよいだけ。
「元カレといたあの日々は良かったなー」と思ったら「でも今は空いた時間の分仕事頑張れてる!」とか「もし次の彼氏ができたら、こういうことを気を付けよう」とか前向きに反省できる。
つまり、僕が陥りやすい悪い懐古癖というのは、むしろ良い懐古癖を導く良い物なのかもしれない。
というか、そもそも悪い懐古癖ができるのは、それだけ恵まれた過去があるということなので、懐古できることに感謝するべきなのかもしれない。